・・・・・・っということで、本当に楽しむということ。
下手なりに私はエアロビクスを楽しんでいる。
でも、本当に楽しんでいるかというと、そうではない。
本当のエアロビクスの楽しさを知らないからだ。
今の私は、全く知らないと言って差し支えない。
じゃあ、本当に楽しむということはどういうことだろう。
ある程度上手くなければ、本当にエアロビクスを楽しめない。
何をするにも、ある程度上手くなる必要があるのである。
この「ある程度」っていうのが曲者(クセモノ)だ。
テニスを楽しむためには、ある程度の技術を持っていなければならない。
ストロークやボレーがいくら上手くても、サービスが全然入らなければ、ゲームを楽しめない。
囲碁を楽しむためには、ある程度の定石を知っていなければダメだ。
水泳を楽しむためには、ある程度息継ぎが出来なければダメだ。
絵画や音楽の芸術を楽しむためには、ある程度作者やその時代背景を知らなければダメだ。
会話を楽しむためには、ある程度の技術が必要であることはご存知の通りだ。
・・・・・・
それでもイイヤという人はいくらでも居る。
まあ、今の私のエアロビクスと同じようなものだ。
でも、ある程度楽しむためには、ある程度の技術が必要で、その技術を会得するまではある程度の辛い努力が必要である。
このある程度の「辛い時期」を経なければ、ある程度の楽しさを得ることが出来ない。
エアロビクスのインストラクターの皆さんは、ある程度どころか、「かなりの」努力を経て、エアロビクスの本当の楽しさを手に入れたはずだ。
まあ、商売抜きにすればとの前提条件がつくが。
彼ら(彼女ら)は、私の想像も出来ないエアロビクスの楽しさを知っているはずである。
学問においても同じである。
ある程度の辛い時期を過ごすのは必須のことである。
偉そうなことは言えないが、最近この部分を隠そうとし過ぎているんじゃないか?
「簡単に楽しめますよ。」
・・・・・・ってぇのが多すぎる。
何もかも便利になって、何事も簡単に出来るように工夫されてきている。
学校の教育だってそうだ。
手取り足取り、サルでも分かるほど噛み砕いて教えている。
辛い部分を、逃避することばかり教えている。
突き放すことを全然していない。
その結果、辛い部分を経ずに楽しみが得られると勘違いする輩ばかりになってきた。
そういう連中は、たいしたバックグラウンドも持っていないくせに、自分を主張することだけは巧みだ。
本当の楽しさを知るということは、なかなか大変なことなのである。
ゲームで手っ取り早く疑似体験できても、本当の楽しさにははるかに及ばない。
・・・・・・
残念ながら、私は本当のエアロビクスの楽しさを知ることは出来なということだけは、どうも確かなようである。
( ̄_ ̄ i)
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