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2012年12月16日日曜日

会員であることの意味(その4)

・・・・・・っということで、ぼくらは会員制クラブに幻想を抱いていないだろうか?

(高い?)入会金と毎月を払っているのだから、集まる会員たちも「マトモな人たち」ではないかという幻想である。

ココではフィットネスクラブの会員を例にして書くが、ゴルフの会員も同じようなものである。

実にマナーが悪い。

実に品がない。

会員としてのプライドがない。

会員同士の互助精神がない。

要するに「紳士」ではないのだ。(女性の生態は分からないので男に限ります。)

会員制クラブに対する幻想は一気に吹っ飛んでしまう。

今まで書いたことの頭には「おしなべて」という言葉が付くのは勿論で、

会員の全部が全部ではないことは、断るまでもないでしょう。

フィットネスクラブの会員になって早10年。マトモな人が如何に貴重な存在であるか、思い知らされた10年でもあったのです。

・・・・・・・

ここで、当然のことながら、次の反論が出てくる。

「そりゃぁ~会員制のクラブといっても、一般大衆(?)を対象にしたクラブだからだ」

・・・と。

んじゃぁ~、入会金も会費も高い高級(?)なクラブなら、そういう下卑た輩は集まらない

だろうという反論である。

・・・・・・・

もう、お分かりですね。

そういう高級クラブに集まる会員は金持ちだ。

だが、金持ち=マトモな人=マナーがいい=品がある=いい意味でのブライドの持ち主=互助精神に満ち溢れている人たちでしたか?

知っていますよねっ!!

そういう連中こそ、異常で=マナーが悪く=下品で=やたら威張っていて=他人のことなど屁とも思っていない人たちであることを・・・。

・・・でしょ?

・・・・・・・続く。



会員であることの意味(その3)

・・・・・・っということで、まず会員とは何かと考えてみる。

ぼくらは今まで色々な集団に属してきた。

幼稚園から大学という教育集団。

その途中、運動クラブや同好会にも属したことだろう。

そして、会社という集団に入る。

そこには必ずリーダーという存在があった。

だが、同じ集団でも(クラブの)会員にはリーダーがいない。

且つ、集団を結びつけるものは同好の志であるという一点で、ものすごく緩い集団である。

そのため、クラブの構成員はかなり多彩である。

・・・・・・・

多彩な人々が集まってはいるが、クラブにおいてはまとめるリーダーは不必要だ。

このように、リーダー不在の集団とリーダーのいる集団では日本人の振る舞いが豹変するのではないか?

・・・というのがぼくの仮説である。

集団内における日本人の行動は、極めて従順であることはよく知られている。

それは自主性の不足と捉えてもいいかも知れない。

過去の戦争で示された日本兵の従順さは、世界の兵士と比べると異様でさえある。

ところが、ひとたび緩い集団になると、統制の取れない、品のない集団になりさがるのではないか。

太平洋戦争末期、捕虜収容所において日本兵の集団を支配したのは将校でも下士官でもなく、ヤクザまがいの連中であった。

これは、リーダーの資質云々より、リーダーが象徴する権威に従順だっただけという証拠ではなかったのか。

(クラブの)会員にも、同じことが言えないだろうか。

要するに、日本人は権威に裏付けされたリーダーによる集団に慣れすぎていて、クラブのような自由な集団においては、極めて不器用にしか振舞えないのではないだろうか。

・・・続く。



2012年7月28日土曜日

またまた「ブログとは?」

・・・・・・・っということで、これまで何度も「ブログとは?」というテーマで書いてきた。

あまり何度も書いてきたので、自分でも分からなくなってきしまった。

最近は「別に定義しなくてもいいじゃん」・・・ってな考えで落ち着いてきた。

ブログに飽きた人に対して、無理やり書けと強制も出来ない。

せっかく面白いブログを書く才能があるのに、更新しなくなってしまったブロガーがなんと多いことか。

でも、それを読めなくなって残念だという、こちら側の都合だけで再開させるのはムリだ。

書く側の都合も尊重しなきゃいかん。

・・・・・・

それにしても、続くな。

いや、自分のブログのことなんですがね。

なにをやっても三日坊主のぼく自身が驚いている。

こんなに続いている理由はいろいろあるだろうが、飽きないのである。

飽きない理由は、まだ面白いのである。

まだということは、もう面白くなくなり、ブログから去ることも十分あり得るということだ。

実際何度もそういう時期があった。(つい最近もね。)

どこが面白いのか、細かく分析してもいいのだが、今日はそんな気分じゃない。

・・・・・・

書かずにはいられない・・・でもないんですね。

ましてや、惰性で書いているわけでもない。

支えているものは好奇心と分析しているんです。

ここでいう好奇心は自分自身に対する好奇心なんですね。

誰も異存ないはずですが、書くという行為は自分の考えをまとめる効果がある。

分かっているようで分からないのが自分ってぇものでしょ?

その自分を理解するためにブログを書いていると言えば、そんなバカなと思われるかもしれない。

皆さんはどうかは知りませんが、自分の書いた古いブログを読み返してみることはないですか?

これは面白いですよ。

たまに読み返すことをお勧めします。

そこには違った自分がいるんですね。

どうです?

好奇心が刺激されるでしょ?

・・・・・・

それと好奇心が途切れないように、自分なりに工夫しているんです。

小説もどきのショートショートを書いてみたり、恋愛論をぶったり、経営問題や時事問題を扱ってみたり、バーチャル居酒屋を開いてみたり、そして実際にブログ仲間と会ってみたり・・・

ねっ?面白いでしょ?



2012年5月28日月曜日

オタク文化って?

・・・・・・・っということで、NHKなんか観ていると盛んにCool Japanというフレーズを連呼している。








自らCOOLと称すること自体、まったくCOOLじゃないことに気付いていないようだが。







まあそれはいいとして、日本の誇る文化として、「ポップカルチャー」にフォーカスを当てている。







ポップカルチャーの中でも特に「マンガ・アニメ」が日本の誇る文化だと盛んにもてはやしている。







確かに日本のアニメーションはその内容と質において、世界の水準をはるかに凌駕していると思われる。







だけれども、所詮(しょせん)オタクの文化でしかありえない。







一部のマニアに好まれる非常に狭い世界の文化であり、これを文化というのはチョット抵抗があるのだがどうだろう?







こういっちゃ非難轟々だろうが、いわば日陰に咲いた文化である。







「世界に誇る文化」なんて、とても恥ずかしくていえない性質のものではないだろうか。







どういう訳か日陰の場所にスポットライトが当たり、何を勘違いしたのかそこに生息していたオタクらが堂々と自らの奇癖を自慢し始めたのである。







ジイサンはこういう風潮を見て、とても居心地の悪い気持ちになるのである。







・・・・・・っと、ここまでが言いたいことの全てである。







だが、書き終ったものの、公開しないまま長い間放置していた。







容易に反論が予想されるからだ。







文化なんていうものは、そもそも一般人に理解されない人々から始まるものだという反論。







オタクへの偏見じゃないかという反論。







そういう考えは、独創性の芽を摘むんじゃないかという反論。







じゃあ、日本が誇れる新しい文化とは一体どういうものをオマエは考えているのか具体的に示せという反論。







オタクという定義、文化という定義をオマエはどう考えちょるのかという反論。







・・・・・・







これら予想される反論に対し、ぼくは有効な反論を展開する自信がない。







そもそも、ぼく自身がアニメーション大好き人間なのだから。







それでも、ぼくの書いたことを理解し、共感してくれる人が多少いると思いたい。







だって、日本はもっと別の文化を発信する能力をいくらでも持っていると信じるから。







・・・・・・







ブログって個人の日記である限り、こういう未完成な文章でも公開を許されるべきだと思うのですがどうでしょうね?











2012年5月27日日曜日

ランニングマシーン(その8)

・・・・・・・っということで、思いがけず長くなっちゃいましたね。

都市の中に住む人間はストレスでオカシくなると言い続けているだけです。

そろそろオシマイにします。

都市に住む人間たちのストレスを解消するために、都市には色々なメニューが用意されている。

フィットネスクラブもその一つだ。

昔はこんなに沢山の数のフィットネスクラブは存在しなかった。

それだけ都会の人間のストレスが進んだ証拠と言ってもいいのではないだろうか。

だがどのメニューも自然の治癒力には適わない。

一生懸命にバーチャル技術で自然を模倣しようとしても、どれもまがい物に過ぎない。

かくして、人間たちはゲームにのめり込み、3D映画に足を運び、ランニングマシーンの上をひた走ることになる。

このランニングマシーンの特徴は、何処へも連れて行ってくれないことである。

本人がいくら走っても、まさしく一歩も進まない。

さらに悪いことは、自分の力で走っているようで、その実マシーンに走らされていることだ。

そんな器械の上で汗をかきたいばかりに、毎月お金を払うのだ。

それをオカシイと思わないのは、本当にオカシくなったと思いませんか?

ランニングマシーン(その7)

・・・・・・・っということで、一旦都市化が始まると、もうそれは止められない。

便利になれば人が集まり、人が集まるとより便利にしなければならなくなり、都市はますます肥大化する。

そういった都市が、地方に散らばる。

都市はどれも同じ顔をしている。

その結果地方色が薄まり、アメリカと同じように全国何処に行っても似たような場所だらけになる。

都市化が進むにつれて、田舎は見捨てられる。

北海道の過疎の現状を見れば分かることだ。

都市に集まった人間もまた同じ顔になる。

動物園の動物と同じく、皆虚ろな顔をしている。

こうして、全国が都市化することになる。

もうこの動きは止められない。

これは国だけの問題ではない。

発展途上国も、便利さを求めて都市化を目指す。

田舎は見捨てられ、世界はいびつな形になる。

中国はまさにこのような状況の真っ只中なのだ。

問題は人間だ。

世界中の人間が都市化の渦に巻き込まれ、オカシくなるのだ。

この動きは止めようにも止まらない。

逆に都市から田舎へ回帰する人がいるだろうか?

一旦手に入れた利便性を手放してまで、不便な自然の中に帰ろうとするマトモな人間が大多数を占めるようになるだろうか。

ありえない。

そして、世界中が都市化し、デッドエンドまで突き進むのだ。






2012年5月26日土曜日

ランニングマシーン(その6)

・・・・・・・っということで、最近渋谷駅で起きたナイフによる傷害事件。

あれは田舎で起きるだろうか?

都会だから起きたのである。

都会が過密だから肩が触れたのである。

駅の雑踏で人体同士がぶつかるのはアタリマエだ。

ぶつかったくらいで、見知らぬ相手を追いかけて刺し殺そうとするのは異常だ。

たぶんキレたのだろう。

いまの若造どもはキレやすい。

キレる原因は蓄積されたストレスだ。

そのストレスを作り続けているのが都会だとこのシリーズで言い続けていることだ。

・・・・・・・

引きこもりを可能にするのは、自ら働かなくても食べるものが(親によって)自動的に補給されるという幻想から来ている。

そういう幻想を育てたのは都会なのだ。

自然界は必死じゃなければ生きて行けないことを教える。

今の若者たちはそういうことを学ぶチャンスがなかったし、教育もされてこなかった。

いま子供たちに教えなきゃいかんことは、トキのようにケージの中から外に放鳥することの重要性だ。

都会から出て自然の中に。

あるいは国全体が都市化してしまった日本から海外に。

・・・・・・・

ぼくも含めて都会で暮らす人たちは皆オカシくなっているはずだ。

たぶん田舎で生活をしている人たちのほうが、ずっとマトモなはずだ。

先進国の人たちより、アジアの田舎で暮らしている人たちの方が、ずっとずっとちゃんと生きていると思う。



ランニングマシーン(その5)

・・・・・・・っということで、ぼくは30年近くも都会に住んでいるのでオカシくなったと書いた。

でも、それは30歳過ぎからのことで、都会で生まれ育った子供たちはどうなんだろうと考える。

彼らは最初から動物園の中で生まれたのと同じなのである。

ぼくらの世代は自然の中で暮らした記憶が残っている。

だが、彼らにとって自然とは、近所の公園か、せいぜい学校の林間学校、そしてマトモな親なら連れて行くであろうオートキャンプくらいなのだ。

都会で生活しているぼくらの子供たちはどうなっているんだろう。

大人でさえオカシくなっているのに、子供たちがオカシくないはずがない。

オカシくなる原因は都会が与えるストレスである。

そのストレスは動物園の動物たちが受けるストレスと同種である。

唯一自然だけがそのストレスを癒す力があるのである。

いま都会で暮らす若者に蓄積されたストレスは計り知れない。

しかも悪いことは、自覚症状がないことなのだ。

このシリーズで、オカシくなったと繰り返してきたが、その例を挙げなければ片手落ちだ。

実のところ、その例は多すぎて枚挙のいとまがない。

・・・・・・・





2012年5月25日金曜日

ランニングマシーン(その4)

・・・・・・・っということで、ホントーはこんな展開になるなんて予想していなかったんですけれど、アルコールの勢いで書いちゃいます。

犯罪を犯すと運の悪いヤツは捕まって、刑務所で長年のあいだ臭いメシを食う羽目になりますね。

塀の中の生活は、自由を剥奪されていて、しかも自然からも完全に隔離されている。

そんな劣悪な環境の中に、二度と戻りたくない。

・・・っと誰でも考えるからこそ、刑務所の役割が果たせるんですよね。

ところが、何度も犯罪を犯した結果、人生の大半を刑務所の中で過ごす犯罪者がいる。

そうすると、彼にとって塀の中の生活が普通であって、娑婆での生活が普通でなくなるんです。

生きるために働かなくちゃならない娑婆より、多少の不満はあるものの、衣食住が保障された刑務所の方が居心地がいいと考えるんですね。

そして、戻りたいというその目的のためだけにまた犯罪を犯す。

酷いときには、殺人まで犯す。

被害に遭った人はたまりませんけどね。

ぼくらは、そういう犯罪者を笑うことが出来るでしょうか?

・・・・・・・

都会は便利そうに見えて、不便だ。

都会には自然がない。

自覚しようとしまいがストレスが蓄積されていく。

自由という点においては刑務所と比較するのは乱暴だけれど、たいした違いはないんじゃない?

都会という屋内実験装置の中に住んでいるぼくらの頭は自覚症状がないだけで、本当はオカシくなっているんじゃないだろうか。



ランニングマシーン(その3)

・・・・・・・っということで、なんでぼくらは自然を求めて都会を脱出しないんでしょう?

それはぼくらの頭が変になってしまったからなんです。

クマ牧場を逃げ出した熊も、水族館から逃げ出したペンギンも、人工的な環境に耐え切れなくなったのです。

何ででしょう?

檻の中にいれば住む場所も食べ物も不自由はしない。

生活環境を比べてみれば、自然の方がずっとずっと厳しい。

あのペンギンは東京湾に逃げたけれど、毎日が餌を追いかけることで費やされていたはずです。

 案外、捕まってホッとしているかも・・・(^_^;)

でも、ぼくらは熊達やペンギンの行動を見て変だと思わず、アタリマエだと思う。

それは人工的な環境より、自然環境の方がずっとずっと魅力的だと知っているからなんです。

・・・・・・・ じゃあなぜ、人間たちは都会から逃げ出さず、逆に集まってくるんでしょう????

それは、人間の頭が変になってしまったからなんです。

知らず知らずのうちに・・・





ランニングマシーン(その2)

・・・・・・・っということで、都会に住んでいると、便利なようで便利ではない。

イヤ便利ですよ。

田舎暮らしに比べたら、絶対的に都会の方が便利。

いちいち説明するまでもなく、その便利さを求めて都会に人が集まって来ると言って差し支えないですよね。

そうすると、もっと便利にしなければならない。

都会ってぇのは集まってくる人のために、さらに便利にする宿命を背負っているんですね。

そうやって都会はどんどん膨れ上がっていく。

面積が限られているので、上へ上へと膨張していかざるを得ない。

いきおい、人工的な生活環境はさらに人工的にならざるを得ない。

そこで犠牲になるのが、自然なんです。

いま話題のスカイツリーも、ヒカリエも自然なんて何処にもないはずです。

まだ行ったことないけれど、見なくても分かるんです。

申し訳程度に植木が設置されていればまだいいほうでしょう。

・・・・・・・

どんなに実験装置内の環境を工夫しても、その中に住み続けるぼくらラットにとって、ストレスが溜まるんです。

それは、田舎に住んでいれば溜まらない、都会特有のストレスなのです。

お分かりの通り、そのストレスを解消できる唯一のものは自然なんです。

だから、クマ牧場の熊も、水族館のペンギンも逃げ出したのです。

本物の自然を求めて・・・・・・・



ランニングマシーン

・・・・・・・っということで、都会に住みだしてからで久しい。








東京23区内だけでも、もう28年間住んでいることになる。







窓からは見える自然といえば、多少の樹木だけである。







それも、完全に人間のコントロール下に置かれた自然で、人間の気まぐれによっていつ消えてしまうかも分からない。







空は人工的な直線で無残に切り取られていて、縦横に電線が横切っている。







こんな生活環境に30年近く住んでいると、気付かないうちに人間おかしくなっているはずだ。







確かに都市は便利で、快適だ。







だが、その住みやすい生活空間は完全に人工的なものであり、まるで自然から隔離された屋内実験装置のようなものなのである。







その都市という実験装置には、外部から食料も水も補給され、温度も安全さえも管理されている。







そう、ぼくらは実験用のラットと同じなのだ。







この装置の中で、本来人間が持っているはずの動物的感覚は徹底的に退化させられる。







ぼくのように30年も住んでいれば、まともな人間になるはずがない。







それが常識的な考え方であるはずだ。







・・・・・・っで、そんな中、フィットネスクラブでランニングマシーンをしている姿って、ラットが回し車を走っている姿とカブリません?







(;^_^A



















2012年3月3日土曜日

全ての女性へ

・・・・・・・っということで、昔ウーマンリブ運動というのが流行ったことがある。

Woman Liberationのことで、女性解放運動とでも言うのだろうか。

Lesbianと混同されて怪しいものと勘違いされたが、もともとはとてもまじめな運動であった。

歴史を振り返るまでもなく、女性は抑圧されてきた。

今でもそれは変わらない。

ぼくも含め男性たちは彼女らのストレスにあまりにも鈍感であったし、これからも鈍感であり続けるだろう。

そのストレスの本質を、ぼくなりに考えてみた。

1)物理的に女性は弱い。

その辺のヘナチョコ男でも、まともに取っ組み合いをしたら、女には負けないだろう。

その上、男は基本的にスケベだ。

スキあらば、女性に襲い掛かろうとしている。

だから、絶えず注意していなければならない。

この辺のストレスは、男性の想像の及ぶところではない。

常に周囲の状況を把握し、変な男がいないか瞬時に判断しているのである。

だから、女性は観察力が優れているのである。

2)同性は味方であると同時に敵である。

物理的に弱い者は、当然集団で防衛しようとする。

ところが女性の場合、男性の攻撃から身を守らなければならないと同時に、彼らの気を引かなければならないという矛盾した立場に置かれている。

すると、女性は味方であはずの同性は、ライバルとなる可能性を常に用心していなければならないことになる。

男だって同じじゃないかという鈍感な人は、ここから先を読む資格はない。

3)妊娠をする側の性であること。

男女間の不公平で最たるものが、女性は妊娠をするということである。

毎月の生理の鬱陶しさといったら、なんと表現したらいいのだろう。

男性に分かってもらおうとも思わないが、TVのコマーシャルでさえ男が嫌がるのには腹が立つ。

・・・でしょ?

仕事で出世するチャンスさえ与えられないのも、子育てを一方的に押し付けられるのも、家庭に縛られるのも、毎日の献立で頭を悩ますのも、全てこの妊娠する側の性を担っているからである。

もちろんこれは子供が出来ない場合も、ストレスの種類は若干違うものの、同じだ。

4)孤独である。

このことはあまり気付かれていない。

男に対しても不信感。同性に対しても不信感。家庭に縛られて子育てをする。

いくら華やかな交友関係を築いている女性でも、本質的に孤独なのである。

しばしば、その孤独感を紛らわせるために、子供に全精力を注ぐ教育ママが出現するのは当然のことである。

女性が井戸端会議(いまはガールズトークというのかな?)に熱中する背景には、この孤独がある。

5)自由を渇望している。

以上述べてきたことをまとめると、女性は不自由であるということである。

子供のときはあまり感じなかったこの不自由さは、大人になるにつれて実体験として、心の奥底に澱のように堆積されていき黒い塊となる。

意識するにせよしないにせよ、女性のストレスの本質はこの黒い塊なのだ。

ウーマンリブ運動が求めたのは表面的な改善であって、この本質的なものには着目されていなかった。

だから失敗したのである。

殆どの女性が、あるとき、何もかも放り出して旅行に行きたいと考えるのは、自由への渇望なのである。

・・・・・・・

では、本質的な開放はあり得るのであろうか。

一つの解決方法を暗示しているのが、あの体外受精後に他人の子宮で子供を生むというものである。

少なくとも、妊娠というハンディからは開放される。

核家族から大家族に戻るという案もあるが、そうなると別のストレスが生まれる可能性のほうが高い。

正直なところ、ぼくには解決策を提示できない。

少しずつではあるが、社会の理解も進んできた。

女性の発言力も、以前に比べずっと強力になってきた。

だから、もう一度別の意味でのウーマンリブ運動を、女性主体ではじめてもいいのではないか。

・・・・・・・

だけれども、やはり手っ取り早い方法は、男性の夢に自分の夢を重ねることである。

太古の昔から、そうやって女性は男をコントロールしてきたではないか。

2012年2月12日日曜日

ブログは文化か?(補足版)

・・・・・・・っということで、先ほどブログ文化について書きましたが、ちょっと補足します。

前提として、ブログは日記であると捉えてください。

その日の出来事や思ったこと、感じたことを書くのですから、まさしく日記ですよね。

(いままでの日記と)唯一異なる点は、他人に公開する日記であることです。

それは、インターネットの普及によって個人が「発信」することが可能になったからです。

日記を付けたことがある人なら共通の感覚を持たれたはずですが、日記はあくまでプライベートなものであるにもかかわらず、心のどこかに他人に読んでもらいたいという感覚がありませんでしたか?

ぼくは以前その感覚のことを、「自分が生きた証を残したい気持ち」と分析しました。

日記である以上、自分を飾らず正直に書くべきです。

他人が読むのですから、どの程度正直に書くか、そこはその人のさじ加減によるのですが、なるべくストレートに書いてほしい。

その方が読んで面白い。

でも、リスクがある。

プライバシーが侵害されるリスク。

変なヤツに絡まれるリスク。

だから、ありきたりのことを書く。安全だから。

だが、そうするとブログは文化へとは発展しなくなる。

ブログという場を安全なものにするためには、ルールが必要でしょう?

明文化したルールでなくとも、共通認識として最低限の「作法」が必要でしょう?

・・・・・・・

皆さんも経験されたことがあると思いますが、ブログという世界は批判されたら予想以上に心のダメージが大きいものなのです。

それは、基本が日記だからなのです。

いくら公開していても、無防備な心の柔らかい部分を晒すのが日記だからです。

そこを武装してしまったら、もはや日記ではなくなるのです。

誹謗中傷する側にとっては実に攻撃しやすい。

このために、いったい何人の有望なブロがーがこの世界から去っていったことか。

・・・・・・・

ブログのいいところは「鮮度」です。

そのとき思ったことをサッと書くのがいいのです。

完璧に理論武装して書いていたのでは鮮度が失われるのです。

論文じゃないのです。

サッと書くのですから、穴だらけなのです。

自分でもそのことが分かって書いているのです。

何でか?

そのときの気持ちを他人に共有してもらいたいからなのです。

書いたことに同意してほしいのです。

間違っても他人に批判なんかされたくないのです。

唯一批判されてもいいのは自分自身からだけなのです。

自分の日記を将来読み返してみて、「あの時は未熟だったなぁ」とか、「間違った考え方をしていたなぁ」と気付く自分を想像するのは楽しいでしょう?

・・・・・・・

「他人のブログを誹謗中傷しないという最低限のマナー」の意味が分かっていただけたでしょうか?

日記にどんなことを書こうが自由です。

他人の日記にケチを付ける権利は誰にもありません。

どんなことを書いていても、次から読まなければいいだけなのです。

修正しようとする行為は、それこそ自分の価値観の押し売りです。

唯一、賛意を示すもの、あるいは創造的な対話に発展するコメントのみ許されるべきです。

ブログは文化か?

・・・・・・・っということで、あるブログ仲間が言いました。

「ブログは文化である」と。

上手い表現だと思ったが、果たしてそこまで行っているかという気持ちも半分ある。

そこで、「文化」の意味をWikipediaで調べてみた。

「文化(ぶんか、英語: culture、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別 グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでも ある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。」

もうひとつ、この定義に加えるなら、「洗練された」という言葉を付けるべきだと思う。

上の定義では、「・・・獲得する振る舞いの複合された総体」とされているが、たとえばソマリアの海賊行為はどう見ても文化とはいえない筈だからである。

ぼくの意見では、ブログはまだ「文化」まで昇華していないと思う。

英語のCultureの語源は、「耕す(Cultivate)」だそうだ。

ぼくらも加え、ブログに参加している人たちは、今現在耕している最中だと思う。

ブログを文化として育てたいものだと切に願う。

そのためには、このブログの世界に徘徊する、「オカシな奴等」を排除せねばならない。

オカシな奴等とは、他人のブログを誹謗中傷しないという最低限のマナーさえ守れない輩のことである。

2011年11月2日水曜日

ブログの王国

・・・・・・・っということで、ブログってなんだろう?としつこく考えてみる。

ブログを続けていると、トラブルってよく起きますよね。

自分の読者とも、そして自分が読者のときも。

何年もコメントのやり取りで、お互い理解し合えたと思っていても、

あるキッカケで、脆くも崩れるっていう経験したことありません?

ぼくはしばしば経験しています。

現実の付き合いでも、しょっちゅう起きているじゃないかと言われればそれまでだが、

ブログの世界はそれが甚だしいと感じるんですよ。

どうしてだろう?

どうしてだろうと思いませんか?

・・・・・・

ぼくは自分のブログの中で、自分が王様だからと思うんです。

ブログって、自分が構築した架空の世界でしょ?

まず匿名であること。

自分の素性をそのまま明かさないこと。

明かさないどころか、修正を加えている。

修正を加えずとも、都合のいいことは発信し、都合の悪いところは隠している。

例えば、顔とか・・・・・。

要するに、ブログは自分にとって都合のいい空間なのです。

自分が王様だということはそういう意味なんです。

・・・・・・

ここにトラブルの原因が隠されている。

ブログという自分にとって都合良く構築した空間に、他人(読者)が介入してくる。

もちろん波長が合えば、ウレシイ。

だって、現実の生活では出会えなかった他人と友人になれるのだから。

だけれども、自分の世界を否定しないまでも、疑問を差し挟まれたりされるとどうでしょう?

自分の構築した、自分にとって極めて都合の良いように作られた世界に対して、

ケチを付けられた気分になる。

所詮、自分で作り上げた世界だから完璧じゃない。

完璧どころか、ボロだらけだ。

ちょいと突くと、簡単に破綻してしまう。

ブログとはそういう王国なのです。

・・・・・・

分かりましたか?

国王諸君。

2011年10月7日金曜日

ちゃんとした

・・・・・・・っということで、怖いものといえば、

『地震・雷・火事・オヤジ』と昔から相場が決まっていた。

中に「オヤジ」という人間の要素が入っているところがこの格言のミソだろう。

いまの若者が聞いたら、何かの冗談だと思われるだろうが、オヤジは本当に怖かった。

昔はオヤジ以外にも怖い人が多かった。

学校の先生、警官、ご近所のオバサンやご隠居、そして何より「大人」が怖かった。

悪いことをすると叱られたからだ。

ぼくの祖父は警官だった。

明治の時代の警官は腰にサーベルを吊っていた。

口ひげを生やし、見た目も実際も本当に怖かったらしい。

ところがいまの警官はどうだ?

若者にはナメられ、怖くともなんともない。

先生だってそうだ。

何を言いたいかというと、いまの若い人には怖いという対象がなくなったということだ。

電車の中で大またを広げて座ろうが、化粧しようが、

フィットネスクラブの湯船で鼻をかもうが、かけ湯もせずに飛び込もうが、

自国の国旗に敬意を表しなくても、

誰も注意しないと知っているからなんとも思っちゃいない。

彼らは叱られた経験無しに、図体だけは大人になったのだ。

その原因は何なのだろう?

それは【権威】というものが著しく低下したからだ。

権威というものの実態は分かるようで分からない。

何となく近寄りがたい。

何となく皆が一目置いている。

何となく勝てそうにない。

何となく逆らっちゃいけない。

・・・・・・

そういった「何となく」が重なったもので権威は保たれるものなのだ。

そもそも権威というくらいだから、裏付ける実力があるから権威なのだ。

警官が制服を着るのも、裏にある実力があることを、暗黙に示すからだ。

ガードマンがいくら似たような制服を着ても、警官の制服には敵わないのだ。

ところが最近、裏付けになる実力が怪しくなってきたのだ。

権威に胡坐(あぐら)をかいて実力の蓄積を軽んじてきたのだ。

警官だって万引きをするじゃないか。

先生だって買春するじゃないか。

国会議員だって脱税するじゃないか。

もちろん一部の不届き者がそういう行為をするだけで、大部分の人間はリッパなはずだ。

だが、権威というものは一度失墜すると、元の高さまで戻すのは容易でないのだ。

「何となく」が、「何てことない」になってしまうと、

警官だって何てことない、サラリーマンじゃないかという事になる。

現代は情報が早い。

不祥事はすぐ伝わる。

そして、何度も繰り返される。

そして、このワリを食ってしまうのは、本当の権威だ。

例えば学問の権威、芸術の権威、そういった本物の権威まで、

何てことないの仲間入りさせられてしまうことだ。

これは問題だ。

社会全体の問題だ。

権威を恐れなくなることは、人類の不幸なのだ。

恐れを知らない大人は、これからもどんどんと生産されていく。

ぼくらは「恐れるな」と教わった。

だが、これからの若者には「恐れろ」と教えなくちゃならないのだ。

本当の怖さを、今回の大地震で皆体験したはずだ。

大自然の怖ろしさを思い知らされたはずだ。

ならば、権威の怖ろしさも復権せねばならぬ。

・・・・・・

だからといって、明日から電車でシルバーシートに座っている若造を叱れとは言わない。

だって、彼らはいままでの人生で叱られたことのない、可哀想な人種なのだ。

逆切れするしか反応する術(すべ)を持たない、哀れな人種なのだ。

だから先生に向かって、学級崩壊の原因を作るガキに鉄拳制裁を加えろとは言わない。

叱られたことのないガキの親も、実は叱られたことのない世代になってきているのだ。

どうすればいいのか?

まず、怖いものを知らない若者の存在を認識すること。

そして・・・

ちゃんとすることを心がけるのだ。

ちゃんとした警官。

ちゃんとした先生。

ちゃんとした政治家。

ちゃんとした大人。

そして・・・・・・

ちゃんとした

オ・ヤ・ジ




(^O^)/

2011年5月19日木曜日

アナログTV

・・・・・・・っということで、あと66日かな?



例のアナログTVがスクラップになる日まで。



我が家には、20年前の28インチの馬鹿でかいブラウン管式TVが1台、今も子供部屋で現役だ。



もっぱらTVゲーム機専用だが、けなげに働いてくれている。



まだ使えるものを捨てるというのは、ぼくらの世代には結構抵抗がある。



ましてや、世の中デジタル機器ばかりだ。



ぼくのようなアナログ人間にとって、アナログTVが消えるということに特別な感慨を抱いてしまう。



デジタル環境の中にいると、人間までがデジタルになるんじゃないかと、半分本気で考えている。



デジタル機器から、得体の知れない電波が発生していて、人間の脳に影響を及ぼしているんじゃないかと。



アナログ人間は緩やかな波のようにカーブを描いて物を考えたり、人と接したりしている。



ところが、デジタル人間はゼロの谷間と1のピークしかなく、その間の移行時間は垂直に切り立っている。



だから、デジタル人間は【善か悪か】のように白黒をつけて理解しようとし、



【好きか嫌いか】で人と接しがちだ。



アナログ人間はデジタル人間にいつも驚かされる。



例えば、突然デジタル人間から嫌いだと宣言されてしまう。



そうすると、アナログ人間はオロオロしてしまう。



それまでの付き合いを考えると、「嫌いだ」に至るまでなにか時間的な過程があるはずだと考えるのである。



だが、デジタル人間は「好きだ」の直後に何の前触れもなく「嫌いだ」に移ることが出来、



それに対して何の疑問も持たないのだ。



・・・・・・



ところで、ランニングマシーンや、サイクルマシーンに付いているTV。



まだ、アナログですよね。



映らなくなったらマシーンごとスクラップですかね?



それとも、デジタルチューナーアダプターを付けて、そのまま使えるようにするんでしょうかね?



だったら、もうそのアダプターを付けたっていい時期じゃないかと思うんですが。



余計な心配をしている今日この頃です。



σ(^_^;)



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2011年1月21日金曜日

ふたたび対話について

・・・・・・・っということで、一日酒を抜いただけで、こんなにも体調良くなるのかと思うくらい調子イイです。

尤も、今晩も飲み会の予定が入っていますがね。

・・・・・・

さて、対話についてである。

以前にも何度かここで触れましたが、今の社会(特に日本に於いて)は対話が極端に少ないように見受けられる。

対話は議論ではない。

討論でもない。

雑談でもない。

会話でもない。

ましてや、いま流行のディベートでもない。

対話とは、対話を通じてお互いがより広く、あるいはより高く、より深く物事を考えようとする行為である。

お互いが、そのことを前提にして対話に臨む。

だから、相手の意見が間違っているとか、論破してやろうとか、自分の考えを押し付けようということは一切しないのがルールである。

TVを見ていると、対話が殆どない。

意見のすれ違いとか、血圧を上げての言い争いはしょっちゅう見かけるが。

そんなTV番組の中で、NHKが放送したマイケル・サンデル教授(ハーバード大学政治哲学科)の公開授業は、対話というものの典型であった。

教授が出す難しい命題について、東大生とか一般市民が自分の意見を言い合う。

思いがけない意見が次々と出てきて、「エッ?そういう考え方もあったのか」と気付く仕掛けである。

もちろん、あなたの考えは間違っているなんていう方向には誘導しない。

あなたのような考え方もあるが、こういう立場からの意見もあるじゃない?

でも、その考えをもう少し深めて考えてみてはどうだろう?

・・・という誘導をしていくのである。

まさしく、「対話」の効果なのである。

もちろん彼の専門は、政治哲学だから、そちら方面の話題が主になる。

だけれども、政治哲学なんかじゃなくても対話は可能だ。

いま、社会で問題になっていること、あるいは自分が悩んでいる個人的なテーマでも対話は可能だ。

・・・・・・

あの番組では、いくつかの問題を取り上げて対話をしていたが、その結論は必ず、

「いい対話が出来ましたね。結論は求めませんが、こういう風に考えを深めることが大切なのです。」

というオチになる。

これを見て、なぁ~んだと思われた視聴者も多かったはずだ。

でも、哲学ってそういうものなのです。

結論を求めていない。

考えるという行為そのものの中に哲学があるのですから。

一見無駄なように思えますよね。

でも、考える過程って面白くないですか?

人間はそういうところに面白さを見出せる生き物なのです。

・・・・・・

そういう風な目でブログをいろいろ見ていると、対話欠乏症に陥った人たちが沢山いることが分かります。

ぼくにとっては、そういうブログが面白い。

書く本人は、対話したいという自分に気付いていないのが殆どなのですが。

そういう人たちは、身近に対話をする対象がいない。

変な言い方だけれども、相手が居なくたってある程度、自分の中で対話をすることは可能です。

でも、それは限界がある。

だから、ブログで発信するのです。

・・・・・・

そういう行為って決して無駄なことじゃないんです。

いや反対に、とても大事な行為なんです。

2011年1月3日月曜日

年の初めに考えたこと

・・・・・・・っということで、お金で人は幸福になれるかという話。

お金自体は価値を持たないのはご存知のとおり。

100万円あったって、メモ帳にもならないし、燃やしたってヤカンの水も沸かせるか疑問だ。

お金に価値があるのは、モノを買えるからだ。

モノ以外も買える。

例えば電車に乗ったり、マッサージを受けるなど、サービスを買える。

でも、時間は買えない。

・・・・・・もうちょっと考えてみよう。

価値を買えるかどうか。

例えば、教養とか芸術。

高い教育を受けるには、残念ながら今の時代、金が必要だ。

芸術だって、いい先生から習うためには、金が必要だ。

だけれども、金があったからといって、本人に学ぶ意欲や才能がなければ、

何の役にも立たない。

・・・・・・

この話題で必ず出てくるのは、愛は金で買えないという主張だ。

ぼくくらいの年になると、この主張はあんまり説得力を持たない。

金のために愛が影響を受ける例を、山ほど見てきたからだ。

でも、そう信じたいという気持ちは、まだ残っていますがね。

・・・・・・

大体において、人は金があるとモノを欲しがる。

金さえあれば、いいクルマを買って、一等地に家を建て、

いい服を着て、美味いものを食べながらシャンパンを浴びるほど飲みたい。

・・・・・・

ところが、モノは人を幸せにはしない。

これだけは、確信を持って言える。

ぼくもいろいろなモノを欲しがり、

あるときは手に入れ、

あるときは手に入れられず悔しい思いをしてきた。

これからも、ずっとモノを欲しがると思う。

だけれども、ぼくの経験からすれば、

モノは人を幸福にしない・・・と断言できる。

皆さんの経験からも考えてください。

高級外車(ベンツでもいいや)が欲しくて欲しくて、

やっと手に入れてはみたものの、

機能は軽自動車(ダイハツミラでもいいや)とさして違いはない。

違いといえば、せいぜい優越感くらいだ。

優越感を持った人間が幸せといえるのだろうか?

・・・・・・

それでも人は金でモノを買いたがる。

モノを得たときの喜びは確かにある。

でも、それは一時で、大体は飽きてしまう。

皆さんも、気に入って買った洋服とか、バッグが、

いっぱいタンスの肥やしになっているでしょう?

・・・・・・

そうなんです、モノが人を幸せにするのは、

それを買った本人がずーっと使って、

それから楽しみを何度も何度も得られるときに限って、

モノによって人は幸せになるのです。

・・・・・・

分かった気になったでしょ?

ここで、この話を終えてもいいんです。

でも、もうちょっと考えてみましょう。

人が幸せになるモノって、そう多くはないことに気付くでしょう?

もう一つ大事なこと、

それは、モノが高いほどイイとは限らないことにも気付くでしょう?

他人から見れば、くだらないモノだって、

本人にとってみればものすごく価値のあるものってありますよね。

そう考えると、モノの価値というものは、値段ではなく、

本人の思い入れとか、記憶とか、気持ちによって左右されるでしょ?

そうすると、お金では幸せを買えるかという最初の問題は、

買えないと結論付けていいのかもしれませんね。

(^ε^)♪

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