・・・・・・・っということで、「理性」という言葉を簡単に使ってしまったと気付き、ちょいと調べてみました。
1 道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。
2 善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。「—を失ってつっ走る」
3 カント哲学で、広義には先天的能力一般。狭義には悟性・感性から区別され、悟性の概念作用を原理的に統一・制御・体系化する無制約の認識能力。理念の能力。
4 ヘーゲル哲学で、悟性が抽象的思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的思考の能力。
5 宇宙・人生をつかさどる基本原理。
ゲッ!!
ナンか哲学的な概念なんだと気付き、ビビッてしまった。
尤も、そんな雰囲気は察していたのだが・・・。
ぼくの「自分を客観的に見る力」という定義はどこにも書いていない。
でも、「本能行動」や「情動行動」に対するものとして「理性行動」が挙げられているので、まあ、当たらずとも遠からずであろう。
だって、「本能行動」や「情動行動」は、自分を見失った行動だもんね。
哲学にはものすごく興味があるんだけど、言葉の「定義」にウルサイので、ちょっと入り口で躊躇してしまう。
あちこち「理性の定義」を調べていたら、面白い事に気付いた。
それは、「道徳」と「理性」である。
前回の「恋愛論」で避けてしまった「浮気」について、この二つの概念を比較してみましょう。
既婚者が夫婦以外の相手と恋愛をすることは、ダメである。
でも、なんでダメなのかというと、道徳的に見てダメなのである。
浮気をしているときは、相手を裏切っているという道徳感から来る負い目がある。(あくまで、推論です。)
でも、そのスリルが、浮気の魅力なのです。(あくまで、推論です。)
一方、この浮気を理性の点から考えてみよう。
理性は、自分の「情動行動」によって起きる可能性を頭で考える。
浮気を相手あるいは自分の、夫あるいは妻に発見されたら、ヤバイことになることは容易に予見できる。
ここが、理性を持っている人間の動物と違う点である。
そこで踏み止まらせるのが理性の力である。
でも、ヤバイということは分かっていても、バレない自信、あるいは確信を持っているとしたらどうだろう。
そうなんです。
理性は、浮気をしてもよいと判断することだってあるのです。
だから、ぼくが理性>本能ならば浮気もしても可と言ったのは、正しいのです。
そうすると、正しい理性と間違った理性があるという考えが出てくる。
・・・・・・ってな具合に、哲学的に考えていったら、ヤヤコシイのです。
以上、中途半端な終わり方でしたが、理性についてはThe Endとします。
0 件のコメント:
コメントを投稿