2010年6月22日火曜日

夫婦は他人か?

・・・・・・・っということで、回答の出ない問題を考えてみる。

それは、「夫婦は他人か?」という命題である。

この問題に対する模範解答は、有名な三段論法である。

即ち、

①夫と子供は他人ではない。
②妻と子供も他人ではない。
③したがって、夫と妻は他人ではない。

という論法である。

だが、ある方面から猛烈な反論が出る。

「子が居ない夫婦にはその論法は当てはまらない」と。

その反論は正しい。

ぼくもそう思う。

だって、子供が独立した後の夫婦にも、その論法は当てはまらない。

「子は鎹(かすがい)」というのは、成人する前の子を持つ夫婦にとって真理であり、

養育義務のなくなった子供に対して、「親権」を主張する場面はあり得ない。

こう考えてみると、夫婦は他人かという命題を解決するのに、「子」という要素は決定打とはなりえない。

そうすると、「夫婦は他人」、あるいは「夫婦は赤の他人」という結論に落ち着く。

しかしながら、ぼくはこの結論は正しいとは思えない。

「夫婦は他人」、あるいは「夫婦は赤の他人」なら、二人を結びつけるものは何もないはずである。

そこで、また正論を主張する者が言う。

「二人を結び付けているもの、それは【愛】」だと。

これも模範解答である。

だが、以前書いたように「愛は変容する」。

結婚前の愛と、子作り時期の愛と、子育て時期の愛と、子が成人したあとの愛と、老いた夫婦の愛は、

それぞれ異なると考えるのが論理的である。

二人を結び付けているのは愛だとの主張は、結婚時に誓った愛が普遍だとの前提に基づく発言である。

ぼくはロマンチストだけれど、「永遠に変わらぬ愛」なんか、これっぽっちも信じていない。

そんな不確定要素が、夫婦を結び付けている本質であるとは思わない。

一方、もっとドライな回答も用意されている。

それは、「結婚は【契約】である」との主張である。

これは、特に米国において、かなりの説得力のある回答である。

なんといっても、彼らは「神」とでさえ契約と理解する民族である。

結婚時に交わした「契約」に、結婚後の生活において、どちらかが違反すれば、

即、契約違反=契約解除=離婚となる。

もちろん、違約金をふんだんに巻き上げるケースも続出している。

これは、あまりにもドライすぎて、ロマンチストであるぼくには好ましく感じられない。

・・・・・・

っと、ここまで、いろいろと論を進めてきたが、夫婦を結び付けているものは【愛】とういう回答も、

【契約】であるという回答も、ぼくにとって十分な説得力を持っていない。

じゃあ、お前はどう考えているかとの質問が当然出てくるであろう。

ぼくの回答は【負い目】じゃないかと思う。

ただし、これは最終回答ではない。

とりあえずの回答と考えていただきたい。

・・・・・・

妻に「この人と結婚できて幸せだった」っと言わせるのは、男の甲斐性である。

このことに多くの夫は気付いていないが、心の奥底に大きなプレッシャーとして感じているものである。

女として魅力のある時期(たぶん女性にとってピーク)に結婚するのが一般的である。

長年夫婦として生活する過程で、子供を産んだり(あるいは共稼ぎをしたり)して、

女性にとって一番大事な資産をその男に提供させるのである。

別の言い方をすれば、「賭けさせる」のである。

だが、大抵の場合、夫は期待したより出世しない。

あるいは、稼ぎが少ない。

またまたあるいは、男としてのメッキが剥がれる。

即ち、大体において女性の賭けは失敗するか、「妥協」に終わる。

そうすると、世の夫たちはどう感じているか?

そう、心の中に【負い目】を持っているのである。

お分かりのように、老いたあとも夫婦を結びつけているもの、

それは、夫の妻に対する【負い目】なのである。



以上、回答のない問題に対する、とりあえずの解答ですが、

皆さんはどういった回答をお持ちでしょうか?

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