・・・・・・・っということで、回答の出ない問題を考えてみる。
それは、「夫婦は他人か?」という命題である。
この問題に対する模範解答は、有名な三段論法である。
即ち、
①夫と子供は他人ではない。
②妻と子供も他人ではない。
③したがって、夫と妻は他人ではない。
という論法である。
だが、ある方面から猛烈な反論が出る。
「子が居ない夫婦にはその論法は当てはまらない」と。
その反論は正しい。
ぼくもそう思う。
だって、子供が独立した後の夫婦にも、その論法は当てはまらない。
「子は鎹(かすがい)」というのは、成人する前の子を持つ夫婦にとって真理であり、
養育義務のなくなった子供に対して、「親権」を主張する場面はあり得ない。
こう考えてみると、夫婦は他人かという命題を解決するのに、「子」という要素は決定打とはなりえない。
そうすると、「夫婦は他人」、あるいは「夫婦は赤の他人」という結論に落ち着く。
しかしながら、ぼくはこの結論は正しいとは思えない。
「夫婦は他人」、あるいは「夫婦は赤の他人」なら、二人を結びつけるものは何もないはずである。
そこで、また正論を主張する者が言う。
「二人を結び付けているもの、それは【愛】」だと。
これも模範解答である。
だが、以前書いたように「愛は変容する」。
結婚前の愛と、子作り時期の愛と、子育て時期の愛と、子が成人したあとの愛と、老いた夫婦の愛は、
それぞれ異なると考えるのが論理的である。
二人を結び付けているのは愛だとの主張は、結婚時に誓った愛が普遍だとの前提に基づく発言である。
ぼくはロマンチストだけれど、「永遠に変わらぬ愛」なんか、これっぽっちも信じていない。
そんな不確定要素が、夫婦を結び付けている本質であるとは思わない。
一方、もっとドライな回答も用意されている。
それは、「結婚は【契約】である」との主張である。
これは、特に米国において、かなりの説得力のある回答である。
なんといっても、彼らは「神」とでさえ契約と理解する民族である。
結婚時に交わした「契約」に、結婚後の生活において、どちらかが違反すれば、
即、契約違反=契約解除=離婚となる。
もちろん、違約金をふんだんに巻き上げるケースも続出している。
これは、あまりにもドライすぎて、ロマンチストであるぼくには好ましく感じられない。
・・・・・・
っと、ここまで、いろいろと論を進めてきたが、夫婦を結び付けているものは【愛】とういう回答も、
【契約】であるという回答も、ぼくにとって十分な説得力を持っていない。
じゃあ、お前はどう考えているかとの質問が当然出てくるであろう。
ぼくの回答は【負い目】じゃないかと思う。
ただし、これは最終回答ではない。
とりあえずの回答と考えていただきたい。
・・・・・・
妻に「この人と結婚できて幸せだった」っと言わせるのは、男の甲斐性である。
このことに多くの夫は気付いていないが、心の奥底に大きなプレッシャーとして感じているものである。
女として魅力のある時期(たぶん女性にとってピーク)に結婚するのが一般的である。
長年夫婦として生活する過程で、子供を産んだり(あるいは共稼ぎをしたり)して、
女性にとって一番大事な資産をその男に提供させるのである。
別の言い方をすれば、「賭けさせる」のである。
だが、大抵の場合、夫は期待したより出世しない。
あるいは、稼ぎが少ない。
またまたあるいは、男としてのメッキが剥がれる。
即ち、大体において女性の賭けは失敗するか、「妥協」に終わる。
そうすると、世の夫たちはどう感じているか?
そう、心の中に【負い目】を持っているのである。
お分かりのように、老いたあとも夫婦を結びつけているもの、
それは、夫の妻に対する【負い目】なのである。
以上、回答のない問題に対する、とりあえずの解答ですが、
皆さんはどういった回答をお持ちでしょうか?
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