2009年3月14日土曜日

ブログ考(その3)

・・・・・・っということで、発信していないブログである。

ただ単に、自分がその日に何を食べたか、どんな買い物をしたか、どんなスタジオレッスンに出たか・・・・・・

など、書き連ねるだけのブログである。

最初のころは、こういうブログの書き方に、疑問というより反発を覚えた。

こういうのは、何も発信していないのと同じではないかと。

とあるブロガーは、ブログでは日記で書くような本心を曝け出すことは、そもそも出来ないでしょうと言う。

誰が読んでいるかもしれない不特定多数の読者に、プライベートなことを書くなんて、危なくてしょうがない。

・・・・・・

ウン、これは正論だ。

でも、書く以上、何かを発信したいという欲求があるはずだ。

そうして、発信していないブログをずっと読み続けていると、ある時、とてつもない自分の個人的な悩みや、過去のトラウマをポロっと発信することがあるんですね。

物事には何でも例外があるが、発信していないようなブログでも、やっぱり発信しているのである。

以前、ブログはエッセーだと定義しようとしたが、それではくくりきれない数多くのブログがある。

それは、発信しているという意識を持たないが、実は発信しているブログである。

自分の何かを。

じゃあ、何を発信しようとしているのだろうか?

自分が、今、現在、ここに生きていることじゃないかな。

それは、発信することによって、「自分の生きている証」を確認したいのでしょう。

なんといっても、日本語を理解する人という条件は付くが、世界中に発信できるのである。

この「自分の生きている証」という概念は、私がブログを書き始めた、最初の頃から持っていたものです。

やっぱり、この考え方に落ち着く。

自分の生きている証を、他人から存在を認められることで確認しようとしている。

もう一歩進めて、共感を求めていると言ってもいいでしょう。

いまほど、人と人との関係が希薄になった時代はないでしょう。

これからますます、その傾向は強くなっていくでしょう。

個人は、孤独にならざるを得ない。

人間は人と人とのかかわりによって、初めて自分の存在を確認することが出来る。

それが生活上で適わなくなってきたからこそ、ブログが爆発的に広がったんじゃないかな。

ほとんどの人が意識していないかも知れないけれど。

ブログを社会現象として捕らえようとすると、この考えは私にはとても理解しやすい。

だが、これだけではブログを分析したことにはならない。

「発信」するからには、「応答」を期待するのもブログである。

これも、ブログが持つ日記とはまったく違う機能である。

次に、この「応答」について考えてみたい。


to be continued.

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