2010年12月25日土曜日

イエスの割礼の日なんて気分悪いぜ

・・・・・・・っということで、クリスマスとなった。

フィットネスクラブに行けば、ミニチュアのクリスマスツリーがまだ飾ってある。

館内のバックグラウンドミュージックも、まだクリスマスソングだ。

まだ、

まだ、

まだ・・・・・・

でも、もう心はクリスマスではない。

前日のクリスマスイブで終わっている。

見たくない、

見たくない、

もう・・・・・・

もう、クリスマスは終わっている。

冷蔵庫に残る、昨日のケーキ、

味は変わらない、

変わらない、

ぜんぜん変わらない、

でも・・・・・・

もう、トキメキはない。

単なる甘いケーキの残りだ。

・・・・・・

あれほど心をときめかせた、クリスマスアイテムの数々。

たとえば、いまチキンを食べている。

クリスマスイブに作りすぎたチキンの残りをスーパーで買ってきて

酒のつまみに食べている。

・・・・・・

約2010年前に生まれた、一ナザレ人の誕生日を祝って、

極東にある神道の国民が、彼の誕生日を祝っている。

いったい何の関係があるのか?

クリスチャンでもない国民に、何の関係があるのか?

カンケーネー

でも、とりあえず仮装エアロビクスをしたいがために、クリスマスを思いっきり利用している。

・・・・・・

ところが、一ナザレ人であるイエスがチンボの先の皮をちょん切った(割礼という)

その記念日を元旦と定めて、

神道としての初詣をし、

仏教も、百八つの煩悩の鐘を突き、

年賀状を送り合い、

お雑煮を食べ、

お節料理を食べ、

初日の出を拝むために富士山に登る。

・・・・・・

なんという矛盾。

これを矛盾と感じずに、何を矛盾というのか?

・・・・・・

ぼくは、提案したい。

冬至を基準にすべきだと・・・・・・

イエスが生まれた12月24日の夜と、冬至の22日と共通点をだれでも感じるはずだ。

都合がよすぎる。

ホントーは冬至とは全く関係ない、夏のさなかにイエスが生まれていたっておかしくない。

ぼくは、なにもいまの暦を変えろといっているわけじゃない。

如何にも、キリスト教のご都合主義がミエミエじゃないかといっているだけである。

1月1日を年の初めとするならば、キリスト教を基準にしなくたっていいじゃないか?と言っているだけである。

その基準を、誰も文句のない冬至にしたらどうだと言っているだけである。

・・・・・・分かりましたかね?ぼくの言いたいこと。(;^ω^A


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