2010年7月7日水曜日

教育は即物的であるのが正しい

・・・・・・・っということで、教育論を100人にぶたせれば、100通りの意見が出てくるだろう。

これからぼくが書く教育論(?)もそんな、泡沫的な意見の一部として聞いて欲しい。

教育ってなんだろう?

教育を受けることによって「豊かな人生が送れる」。

これは正しい。

だが、世の中そんな綺麗ごとでは済まない。

教育を受けることによって「食うことが出来る」。

あるいは、「惨めな人生から抜け出せる」。

もっと平たくいえば、「金が稼げる」。

えげつなくいえば、「他人を蹴落とせる」

・・・・・・でしょ?

えっ?ちがうって?

アフリカの子供達が、アフガンの少女達が、ブータンの子供達が何キロも歩いて学校に行くのは、

いまのままだったら、この世の中では食っていけないと、冷徹に知っているからじゃないかな?

みんな必死なのである。

授業に出席して、居眠りをして、代返に頼って、他人のノートを写して、小手先のテクニックで単位を取り、

とにかく、大学出という称号を得るだけに学校に通っているのとは違う「切実さ」があるのである。

教育にはそんな「即物的」な意味が強いのである。

だが、いまの日本はどうだ?

大学を出ても、7人のうち1人は就職できないのである。

大学での肩書きでは、「食うことが出来ない」のである。

こうなると、日本において「教育の意味」はなんだろう?

意味がないではないか?

そりゃ、大学で優雅な教育を受ければ、精神的に「豊かな人生」を送れるだろう。

だが、それは「金銭的に豊かな人生」ではない。

もう一度、日本の教育を根本から見直さなければならないんじゃないだろうか。

フランス文学を専攻して同時通訳も出来る位の能力を持った女性が、田舎で専業主婦として暮らしている。

大学時代は化学反応の実験に明け暮れ、亀の子(?)の式をスラスラ書ける子供達が、就職に失敗して何年も引きこもりになっている。

文学部で古文を読解(?)できた多くの子女が、パートでつまらないレジ係に就いている。

これって、無駄じゃないですか?国家の・・・・・・。

教育=収入と直結していない。

景気がいいときは、そんな無駄は目立たなかった。

でも、このような不景気な時代に、教育=収入という式が当てはまらなかったら、

いまの子供達は、何で学校で勉強しなきゃならないの?

いまの親達は、何でなけなしの預金を取り崩して、子供達に教育を受けさせなければならないの?

金を掛けただけの見返りがないのは分かっているのに、何で金をつぎ込まなけりゃならないの?

オカシイ。

明らかにオカシイ。

日本の教育システムは、もうとっくに破綻してしまっている。

大学に入ればホッとしてしまう子供と親。

無駄だと知りながら、惰性で教える学校側。

本当の能力のある卒業生を見極められない会社側。

日本で能力が発揮できなければ、外国で発揮しようじゃないかという

アタリマエの発想が出来ない国民。

いったいどうしちゃったのだろう?

日本国・・・・・・。

江戸時代に「寺子屋」という一般市民階級に教育を施した、

当時としては画期的な教育制度を持っていた日本という国。

もう一度、教育が即物的な意味を持った時代に立ち返るべきじゃないかな?





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