2007年11月7日水曜日

サイレントマイノリティー

・・・・・・・っというわけで、5年も続けていたフィットネスクラブが何で嫌になったのか、いろいろ考えてみた。
ツラツラ考えているうちに、「サイレントマイノリティー」っという、ずいぶん昔の言葉に突き当たった。
ちょっと、飛躍しすぎですかな。

私が何でフィットネスクラブに入ったか、動機を自分なりに分析してみた。
見学のとき、夫婦で入るのも粋なものだと思い、衝動的に入ったのは事実。それから、この歳になったので、健康管理という意味も当然大きい。しかし、それプラスαとして「クラブの会員」になる・・・・っということは、かなり重要な意味を持っていたと思う。
要するに、ステータスを求めていたというと、ほとんどの人が同意されるだろう。

私の入ったクラブは、都心の、いわゆる高級住宅街に立地している。会費もチョット高め。5年前に出来たときは、それなりに敷居が高く見えた。
ガキはお断り、タトゥーもお断り・・・・っとなれば、マトモな人の集まるクラブと思うだろう。
マトモとは、最低限の教養とそれに見合うマナーを持った人のことである。
しかし、実態は・・・・・・・。
この「・・・・・・・」の部分については、ここのブログで散々書いたので、あえて繰り返す必要はないだろう。

このクラブも今年で5年が経った。このくらい経てば、会員の新陳代謝はほとんどなくなり、顔ぶれは決まってくる。そうなると、自然にそのクラブのカラーが確立される。
ここのクラブのカラーとは何だろう。
さすが都会のクラブ。田舎にあるクラブと違い(といっても見て来た訳ではないが)、会員同士のつながりが淡白である。
私は、この淡白なカラーが気に入っていた。
会費を払っていながら干渉されるなど、とても我慢が出来ることではないではないか。
しかし、5年も経つと、その淡白なカラーという良さが薄くなってくる。
群れが出来るのである。
私は、それ自体が悪いといっているのではない。
自然なことであると思っている。
私がイヤなのは、群れに品がないことである。(ア~あ、言っちゃった。)

そこで、サイレントマイノリティーである。
教養とマナーを持った人は群れないとは言わないが、集団の中でも節度があると信じている。信じたい。
少なくとも、外から見て見苦しくないように振舞うくらいの常識を持ち合わせている。
私が感じているのは、日本人は特にこのサイレントマイノリティーのパワーが弱いのではないかということ。
それも著しく。

表面でガチャガチャ目立っているのは、少数であるはずだし、あるべきだと思う。
マイノリティーは、良識のある人々で日本社会は構成されていると信じたい。(何も、自分がお高く留まっているとは言われたくないが、)それがサイレントマイノリティーと呼ばれる所以だろう。

日本人はなぜかゆるい規制の中では、集団としての「品」がない。

突飛な例だと思われるかも知れないが、戦争中に日本軍の捕虜は非常に品格がないと指摘されている。
会田雄次や、山本七平などが繰り返し指摘していることである。
捕虜になった途端、将校は統率力を失い、ヤクザが支配するようになる。
菊と刀でも指摘されていたように、日本兵は捕虜になった途端、味方の情報を喜んで提供する。
逆に、イギリスの捕虜は映画の「戦場に架ける橋」で描写されているように、逆境の中でも規律が保たれているのは事実のようである。

日本兵の捕虜集団と、フィットネスクラブの集団を比較することは、無茶だとは分かっている。そりゃ、ムチャクチャだ・・・・・っとも思う。
しかし、日本人の特色として、社会人(集団)としての基礎(品格)が出来ていないと思う。
常々感じていたことなのだが、フィットネスクラブに通うようになって、特にそれを強く再認識させられた。
これは宗教のせいなのか。教育のせいなのか。はたまた民族特有の資質なのか。このことを論ずるには、私自身力量不足なので、ここから先には進めない。

ただ、キーワードとして「市民」という認識が日本人に確立されていないと思っている。
英語の「Citizen」の訳は「市民」とされているが、ここでの市民は川崎市民ということではない。宗教や、国家を超えた「社会人間」としての、常識、義務、プライドなどの意味を持ったのが、Citizenという言葉であると思う。

この感覚を持っていれば、世界のどこに行っても、人間として認められると思う。なんで、日本人にはこのCitizenという感覚が薄いのか、私には分からない。サイレントマイノリティーは、当然Citizenの意識を持った集団であることは言うまでもない。

私が漠然と感じた、「このクラブはイヤだナー」・・・・・・っという感覚を、自分なりに分析してみると以上のようになる。

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