・・・・・・っということで、発信していないブログである。
ただ単に、自分がその日に何を食べたか、どんな買い物をしたか、どんなスタジオレッスンに出たか・・・・・・
など、書き連ねるだけのブログである。
最初のころは、こういうブログの書き方に、疑問というより反発を覚えた。
こういうのは、何も発信していないのと同じではないかと。
とあるブロガーは、ブログでは日記で書くような本心を曝け出すことは、そもそも出来ないでしょうと言う。
誰が読んでいるかもしれない不特定多数の読者に、プライベートなことを書くなんて、危なくてしょうがない。
・・・・・・
ウン、これは正論だ。
でも、書く以上、何かを発信したいという欲求があるはずだ。
そうして、発信していないブログをずっと読み続けていると、ある時、とてつもない自分の個人的な悩みや、過去のトラウマをポロっと発信することがあるんですね。
物事には何でも例外があるが、発信していないようなブログでも、やっぱり発信しているのである。
以前、ブログはエッセーだと定義しようとしたが、それではくくりきれない数多くのブログがある。
それは、発信しているという意識を持たないが、実は発信しているブログである。
自分の何かを。
じゃあ、何を発信しようとしているのだろうか?
自分が、今、現在、ここに生きていることじゃないかな。
それは、発信することによって、「自分の生きている証」を確認したいのでしょう。
なんといっても、日本語を理解する人という条件は付くが、世界中に発信できるのである。
この「自分の生きている証」という概念は、私がブログを書き始めた、最初の頃から持っていたものです。
やっぱり、この考え方に落ち着く。
自分の生きている証を、他人から存在を認められることで確認しようとしている。
もう一歩進めて、共感を求めていると言ってもいいでしょう。
いまほど、人と人との関係が希薄になった時代はないでしょう。
これからますます、その傾向は強くなっていくでしょう。
個人は、孤独にならざるを得ない。
人間は人と人とのかかわりによって、初めて自分の存在を確認することが出来る。
それが生活上で適わなくなってきたからこそ、ブログが爆発的に広がったんじゃないかな。
ほとんどの人が意識していないかも知れないけれど。
ブログを社会現象として捕らえようとすると、この考えは私にはとても理解しやすい。
だが、これだけではブログを分析したことにはならない。
「発信」するからには、「応答」を期待するのもブログである。
これも、ブログが持つ日記とはまったく違う機能である。
次に、この「応答」について考えてみたい。
to be continued.
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