・・・・・・・っということで、昔ウーマンリブ運動というのが流行ったことがある。
Woman Liberationのことで、女性解放運動とでも言うのだろうか。
Lesbianと混同されて怪しいものと勘違いされたが、もともとはとてもまじめな運動であった。
歴史を振り返るまでもなく、女性は抑圧されてきた。
今でもそれは変わらない。
ぼくも含め男性たちは彼女らのストレスにあまりにも鈍感であったし、これからも鈍感であり続けるだろう。
そのストレスの本質を、ぼくなりに考えてみた。
1)物理的に女性は弱い。
その辺のヘナチョコ男でも、まともに取っ組み合いをしたら、女には負けないだろう。
その上、男は基本的にスケベだ。
スキあらば、女性に襲い掛かろうとしている。
だから、絶えず注意していなければならない。
この辺のストレスは、男性の想像の及ぶところではない。
常に周囲の状況を把握し、変な男がいないか瞬時に判断しているのである。
だから、女性は観察力が優れているのである。
2)同性は味方であると同時に敵である。
物理的に弱い者は、当然集団で防衛しようとする。
ところが女性の場合、男性の攻撃から身を守らなければならないと同時に、彼らの気を引かなければならないという矛盾した立場に置かれている。
すると、女性は味方であはずの同性は、ライバルとなる可能性を常に用心していなければならないことになる。
男だって同じじゃないかという鈍感な人は、ここから先を読む資格はない。
3)妊娠をする側の性であること。
男女間の不公平で最たるものが、女性は妊娠をするということである。
毎月の生理の鬱陶しさといったら、なんと表現したらいいのだろう。
男性に分かってもらおうとも思わないが、TVのコマーシャルでさえ男が嫌がるのには腹が立つ。
・・・でしょ?
仕事で出世するチャンスさえ与えられないのも、子育てを一方的に押し付けられるのも、家庭に縛られるのも、毎日の献立で頭を悩ますのも、全てこの妊娠する側の性を担っているからである。
もちろんこれは子供が出来ない場合も、ストレスの種類は若干違うものの、同じだ。
4)孤独である。
このことはあまり気付かれていない。
男に対しても不信感。同性に対しても不信感。家庭に縛られて子育てをする。
いくら華やかな交友関係を築いている女性でも、本質的に孤独なのである。
しばしば、その孤独感を紛らわせるために、子供に全精力を注ぐ教育ママが出現するのは当然のことである。
女性が井戸端会議(いまはガールズトークというのかな?)に熱中する背景には、この孤独がある。
5)自由を渇望している。
以上述べてきたことをまとめると、女性は不自由であるということである。
子供のときはあまり感じなかったこの不自由さは、大人になるにつれて実体験として、心の奥底に澱のように堆積されていき黒い塊となる。
意識するにせよしないにせよ、女性のストレスの本質はこの黒い塊なのだ。
ウーマンリブ運動が求めたのは表面的な改善であって、この本質的なものには着目されていなかった。
だから失敗したのである。
殆どの女性が、あるとき、何もかも放り出して旅行に行きたいと考えるのは、自由への渇望なのである。
・・・・・・・
では、本質的な開放はあり得るのであろうか。
一つの解決方法を暗示しているのが、あの体外受精後に他人の子宮で子供を生むというものである。
少なくとも、妊娠というハンディからは開放される。
核家族から大家族に戻るという案もあるが、そうなると別のストレスが生まれる可能性のほうが高い。
正直なところ、ぼくには解決策を提示できない。
少しずつではあるが、社会の理解も進んできた。
女性の発言力も、以前に比べずっと強力になってきた。
だから、もう一度別の意味でのウーマンリブ運動を、女性主体ではじめてもいいのではないか。
・・・・・・・
だけれども、やはり手っ取り早い方法は、男性の夢に自分の夢を重ねることである。
太古の昔から、そうやって女性は男をコントロールしてきたではないか。
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