・・・・・・・っということで、引っ掛かる格言シリーズ。
そんなシリーズあったっけ?
【父親が何者であったかはどうでもいい。問題は記憶に残る姿だ。】
アメリカの詩人アン・セクストン(1928年~1974年)の言葉。
1967年にピュリッツアー賞を受賞した女流詩人。
1974年に自殺した。46歳。
・・・・・・
二人の娘の父親であるぼくは、どのような姿で記憶に残るのであろうか?
自宅では、いつもゴロゴロしているか、酒を飲んでいるかだから、大体は想像が付く。
でも、何者であったかは知って欲しいと思う。
どのような価値観を持ち、どのような過去を持ち、彼女らをどう見ていたか。
だが、その何者であるかを説明することは、きわめて難しい。
まず、説明するのに必要な会話がない。
そして、語る本人が自分が何者であるかを知らない。
・・・・・・
そう考えると、この格言は正しいといえる。
そもそも何者であったか説明できなければ、それはどうでもいいことなのである。
これは、とても寂しいことではあるが。
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問題は、どう記憶に残るかだ。
こんなぼくでも、子供が小さいときは、色んなところに連れて行ってやり、
かなり遊んであげたほうだと思う。
それは、愛情深い父親の姿として記憶に残る役割を果たしているだろうか。
大きくなって会話が途切れたなら、父親の背中を見せて伝えるしかない。
でも、働いている父親の姿なんか一度も見せる機会はない。
結局、酔っ払っている姿なんだろうか。
寂しい。
・・・・・・
父親を見る目というのは、息子と娘では異なるはずである。
息子は、同性として「乗り越える対象」である。
娘は、親といっても父親は結局「理解できない異性」なのである。
ここまで考えて、もう一度この言葉に戻ってみよう。
・・・・・・
この言葉を吐いたのは、女性である。
一見、この格言の対象は、男女差がないように見える。
事実、息子が読んでも納得が出来る格言だ。
だが、これが娘向けだと考えると、ぐっと深さが出てこないだろうか。
娘の心に与える父親の影響の大きさが汲み取られないだろうか。
・・・・・・
ためしに、別の角度から。
父親を母親に置き換えてみたらどうだろう。
もう、格言としての価値がなくなることに気付かれるだろう。
・・・・・・
長々と書いたが、この格言に対するぼくの解釈は、
【父親は理解できないが、影響を受けてしまう。しゃくに障るけど。】
・・・と、娘が言っているというものです。
皆さんは、どう感じられましたか?
・・・・・・
ちなみに、アン・セクストンはconfessional poetといわれる詩を書いていました。
直訳すれば、「告白詩」でしょうか。
精神を病んでいました。
母親から性的虐待を受けていたとされますが、定かではありません。
誕生日に、ガレージに車のエンジンをかけたまま篭り、排ガス自殺をしました。
その時、母親の毛皮のコートを着ていたそうです。
父親の影響もさることながら、母親の影響のほうがずっと大きいのかなぁ?
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