2010年3月6日土曜日

父親像

・・・・・・・っということで、引っ掛かる格言シリーズ。

そんなシリーズあったっけ?

【父親が何者であったかはどうでもいい。問題は記憶に残る姿だ。】

アメリカの詩人アン・セクストン(1928年~1974年)の言葉。
1967年にピュリッツアー賞を受賞した女流詩人。
1974年に自殺した。46歳。

・・・・・・

二人の娘の父親であるぼくは、どのような姿で記憶に残るのであろうか?

自宅では、いつもゴロゴロしているか、酒を飲んでいるかだから、大体は想像が付く。

でも、何者であったかは知って欲しいと思う。

どのような価値観を持ち、どのような過去を持ち、彼女らをどう見ていたか。

だが、その何者であるかを説明することは、きわめて難しい。

まず、説明するのに必要な会話がない。

そして、語る本人が自分が何者であるかを知らない。

・・・・・・

そう考えると、この格言は正しいといえる。

そもそも何者であったか説明できなければ、それはどうでもいいことなのである。

これは、とても寂しいことではあるが。

・・・・・・

問題は、どう記憶に残るかだ。

こんなぼくでも、子供が小さいときは、色んなところに連れて行ってやり、

かなり遊んであげたほうだと思う。

それは、愛情深い父親の姿として記憶に残る役割を果たしているだろうか。

大きくなって会話が途切れたなら、父親の背中を見せて伝えるしかない。

でも、働いている父親の姿なんか一度も見せる機会はない。

結局、酔っ払っている姿なんだろうか。

寂しい。

・・・・・・

父親を見る目というのは、息子と娘では異なるはずである。

息子は、同性として「乗り越える対象」である。

娘は、親といっても父親は結局「理解できない異性」なのである。

ここまで考えて、もう一度この言葉に戻ってみよう。

・・・・・・

この言葉を吐いたのは、女性である。

一見、この格言の対象は、男女差がないように見える。

事実、息子が読んでも納得が出来る格言だ。

だが、これが娘向けだと考えると、ぐっと深さが出てこないだろうか。

娘の心に与える父親の影響の大きさが汲み取られないだろうか。

・・・・・・

ためしに、別の角度から。

父親を母親に置き換えてみたらどうだろう。

もう、格言としての価値がなくなることに気付かれるだろう。

・・・・・・

長々と書いたが、この格言に対するぼくの解釈は、

【父親は理解できないが、影響を受けてしまう。しゃくに障るけど。】

・・・と、娘が言っているというものです。

皆さんは、どう感じられましたか?

・・・・・・

ちなみに、アン・セクストンはconfessional poetといわれる詩を書いていました。

直訳すれば、「告白詩」でしょうか。

精神を病んでいました。

母親から性的虐待を受けていたとされますが、定かではありません。

誕生日に、ガレージに車のエンジンをかけたまま篭り、排ガス自殺をしました。

その時、母親の毛皮のコートを着ていたそうです。

父親の影響もさることながら、母親の影響のほうがずっと大きいのかなぁ?



//

0 件のコメント:

にほんブログ村 健康ブログ フィットネスへ